呆れてモノが言えないとはこのことか。
夏休みで毎日家にいる我が子にお昼ご飯を用意する、
この、何ら特別でもない当たり前のことに異常なストレスを抱いて
恥ずかしげもなく世間にその苦痛をアピールする。
そしてまたメディアも能無しである故、
あたかも大多数の母親が直面している社会問題であるかのような取り上げ方をし、
特に今年の夏はこの類の報道が多い。
そして、ラクすることしか考えない母親たちが都合よくメディアを利用して
同情をかき集めるような訴えを寄せる。
確かに、40日間毎日子どもの相手をしながら日常の家事ルーティーンをこなし、
イレギュラーな作業や予定も組み入れることはラクでも楽しみでもない。
疲れる。面倒ではある。
でも、そこまでの愚痴で留められる程度ではないか。
栄養バランスをや量がいつも適切な学校給食にあらためて感謝する、そのくらいで良かろう。
夏休みのかたちは今の親が子どもの時と何も変わらない。
当時の平成だって「働くお母さん」はたくさんいて、その家庭なりにできるかたちで
工夫して乗り切っていた姿を子どもなりに見て、協力もしてきたであろう。
掃除機も洗濯も食器洗いも「スイッチ1つでおまかせ」ではなかった。
レトルトもインスタントも冷凍食品も今ほど豊かではなかった。
食材の宅配はコープくらい、ミールキットもフードデリバリーもなかった。
スーパーの閉店時間も早かった。
外食産業も今ほど豊かではないし、「コスパ」の概念もない。
ファミレスすらも「たまにの贅沢」ではなかったか。
比べて欲しい。今はどうか?
「手抜き」をポジティブに変換した「時短」を合言葉に、
家庭内のほとんどの労働が効率アップし、
罪悪感や劣等感を抱かずにラクできる手段も豊かになった。
仕事をしている、していないにかかわらず、世の母親を取り巻く環境は格段にラクになっている。
母業への意識の低さとスキルの未熟さを棚上げして
恥知らずな主張をする母親たちの訴えを分析して見える共通点は以下の通り。
1.工夫しようとしない
2.普段からの段取りの悪さと親子ともわがまま
<見解>
1.「ラクしたい」と思っている割にはラクになる方法を考えていない。
子どもがすんなり食べる、かつ作るのが簡単な一品ものや丼もののメニューをルーテ
ィーン化してしまえば、さながら「給食の献立表」と同じ感覚で買い出しや下準備も考
えやすい。
工夫しない母親は、毎日毎食、行き当たりばったりの無計画で無駄なストレスを生む。
無駄にスーパーに寄り、無駄な買い方をして無駄な買い置きが増え、無駄な出費がかさ
み、冷蔵庫は満杯なのに食卓はいつも貧相である。子どもには「宿題の計画を立てろ」
という割に、自身の無計画さが見えていない親は少なくない。
また、前日の夕飯を多めに作って「翌日用に先によけて残す」ことも常套手段である。
工夫しない母親は、「余ったら保存」する。余らなければ一向に保存できない。
作った分を全部食卓に出したらなくなってしまうのも至極当然。
ワーママであれば、学童に通わずお留守番の家でも「親子でお弁当」に決めてしまうの
がラクである。
普段の食卓に出さないお弁当向けの冷凍食品は少し特別感があって子どもウケが良い
し、毎日代わり映えしなくてもお弁当箱に詰められているとおいしく食べられてしま
うというもの。時には具沢山のおにぎりと唐揚げだけでも全然良い。容器を並べて同時
に詰めていけば親の弁当も出来上がる。毎日コンビニで買う時間と食費が浮き、「子ど
もと同じものを職場で食べる」こともまた夏休み限定で良い経験ではないか。
ある番組が取材したシングルワーママは、朝食を用意して子どもに食べさせている間
に、お昼用のオムライスを新たに作っていた。そして「出勤前に朝昼の両方を作るのは
大変!自分の支度もあるし…」とカメラに向かってぼやいていた。「当たり前だそんなの!馬鹿じゃないか。こなせないことをやろうとして文句言う前に自分にやりやすい方法を考えろ!」とテレビの前で思ったのは私だけではないだろう。極端にアホな人を取材したものだ。メディアも、報道するにふさわしい内容か考えるべきである。
2.夏休みは突然来るのではない。仕事も突然始めるのではない。
日頃から親の仕事都合や家庭のあり方を子どもと共有し、理解させて協力させる、「チームとしての親子、家族」を構築していない。
ある親子へのインタビューで母親は「少しでも栄養バランスを考えて作りたいけれどそうすると子どもが食べてくれない」と訴え、横にいた子どもたちは「外食の味が食べたい」と答えていた。夏休み関係なく、親が毎食の用意の大変さやその中での工夫を子どもに伝え、出された食事に文句をつけることなど罰当たりであると理解させていれば、普段よりも親が苦労する時期に幼稚な主張はしないであろう。
また、別のインタビューで母親は、「お昼を買うために渡しているお金でお菓子を買って食べていて困る」と訴えていた。高校生の息子だという。作り置きできない親の事情や、「きちんと食べなさい」と信頼して現金を預けていく親の気持ちが理解できていないのだろう。「高校生にもなって!」という言葉が口をついて出そうである。「自分で適当に作れ!」と言ってもいいくらいだ。同じ高校生なら、疲れて帰ってくる親のために一品くらい作ってしまう逆パターンもあるだろう。
本筋がたとえズレていても、苦痛を訴えると同情が集まるおかしな現代。
「いろんな人がいる」のだから、と皆口を揃えて言う。そのとおりである。いろんな人がいる。ごく一部であろう極端におかしな例だけにフォーカスするべきではない。
この件に関しても、もっと困難な家庭状況の中で上手にマネジメントしている母親はたくさんいるはずだ。早番遅番のある仕事なら、お昼どころかもう1食分のストックも必要だろう。報道関係や芸能界など不規則だったり不定期な仕事を持っている母親を想像したら、おそらく誰もが「大変だろうに」と思う。でも、不思議なことに、「誰もが想像つく大変さ」の中にいる人ほど、よく考えてうまくやっているもの。充分に解決余地のある人に限って努力せず責任転嫁する。
批判だけするのも何なので私自身のことにも触れておくが、
母親は持病を抱えながらの専業主婦で、カレンダーが赤い日も、もちろん夏休みも関係なく30年間毎日3食、1日30品目を目安に、当たり前のようにキッチンに立っていた。時折「人が作ったのを食べたいな~」くらいは言ったものの実際は好んでおらず、外食はごくたまに、出来合いのおかずで済ますこともほとんどなかった。私が高校生の3年間は週5でお弁当を作ってくれた。
私自身は、大学生の4年間は自分でお弁当をこしらえ、その習慣は社会人になっても継続した。5:30起床、自分の身支度、朝ごはんは親の分も用意し、キッチンで食べながら弁当も詰め、7:00には家を出る生活を10年近く続けた。結婚して実家を出た後も同じ生活サイクルで夫の弁当も同時に作る。現在、私の出勤は8:00であるが、7:00に出ていく夫と息子のためにこのスタイルは続いている。辛いと思ったのは妊娠中の悪阻時期のみである。習慣というものは良くも悪くも、大きな力を見せてくれるものだ。
昨今、ことの本質や根本的な問題に目を向けず、何の解決にもならない「子育て支援」策に税金がバラまかれ、多くの批判があってもそこには背を向け、極端な少数派意見にはすぐ税金を投入するおかしなご時世である。
もうすでに、学童施設に弁当の配達を導入させたり、個人の飲食店が税金の助成を受けて子ども向け弁当を¥100で販売する自治体も出てきている。
安易な支援策は悪い前例となり、一部の人から一時的にもてはやされたとしてもまた別の問題を生じさせる。
メディアや自治体、政府は「目のつけどころ」を間違えてはならない。
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